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2010年1月 4日 (月)

崇徳天皇。

Sutoku_kuniyoshi_2  歌川国芳 画

【崇徳天皇】 wikiより

崇徳天皇(すとくてんのう)
元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日))は
日本の第75代天皇(在位1123年 - 1142年)。
退位後は新院、讃岐院とも呼ばれた。諱を顕仁(あきひと)という。

父は鳥羽天皇。母は藤原公実女の中宮璋子(待賢門院)。鳥羽天皇の第一皇子だが父には疎んぜられた。古書『古事談』には、これは崇徳天皇が鳥羽天皇の実子でなく、鳥羽天皇の祖父白河法皇と、白河が後に鳥羽に与えた待賢門院との間にできた子であったためとある。父・鳥羽がそれを知ったため、崇徳を「わが子にして祖父の息子(自分の叔父)」と言う意味で「叔父子(おじご)」と呼んだという。ただし、これは『古事談』のみの記述であり、信憑性には疑問も残る。


保安4年(1123年)に白河法皇の影響の下、鳥羽天皇に譲位され、5歳で皇位につく。白河法皇の死後治天の君となった父、鳥羽上皇に疎んじられ、永治2年(1142年)4月28日、異母弟である近衛天皇に譲位する。新帝は崇徳上皇の中宮藤原聖子の養子となっており、当初、崇徳上皇は自身による院政を期待していたのであるが、鳥羽法皇によって発布された譲位の宣命には「皇太弟」と明記されていたため、崇徳上皇は父院としての立場を喪失し、巧みにその院政を封印されてしまったという。


こうして上皇となったあとも、実権は治天の君である鳥羽法皇が握っており、その不満は募っていった。近衛天皇の母である美福門院は崇徳上皇を宥めるために、彼の長男である重仁親王を自分の養子として迎え入れた。これにより近衛天皇が継嗣のないまま崩御した場合には重仁親王への皇位継承が可能となったが、その後、崇徳上皇の同母弟雅仁親王の王子守仁親王をも養子としたために、後年の保元の乱の原因となる跡目争いへの種が蒔かれてしまった。

久寿2年(1155年)に近衛天皇が崩御すると、皇位継承者を決定する王者議定は、鳥羽法皇、美福門院、藤原忠通、信西らの主導の下、重仁親王と守仁親王を候補者として審議されることとなった。だが、あくまでも崇徳上皇を忌避する鳥羽法皇、不仲である崇徳上皇の院政によって自身が掣肘されることを危惧する美福門院、崇徳上皇の側近であった実弟頼長を牽制したい忠通、そして自身が乳母夫を勤める雅仁親王の即位による台頭をめざした信西らの合意によって、次代の守仁親王の即位を前提として、その父雅仁親王が中継ぎとして即位することとなった。後白河天皇である。



『保元の乱』
保元元年(1156年)7月2日の鳥羽の崩御ごろから後白河天皇側は、崇徳上皇と鳥羽法皇との末期の対面を拒否(ただし、後白河天皇も鳥羽法皇との末期の対面をしておらず、崇徳上皇に対する意図的なものではないとする説もある)し、検非違使を召集して京中を警備させ崇徳に対する警戒の念をあからさまにしてみせ、鳥羽法皇の初七日を崇徳上皇の臨幸もないうちに実施するなどして、崇徳上皇への露骨な挑発と追い込みを行い始めた。

7月10日、追い詰められた崇徳上皇は藤原頼長とともに白河殿に移り、平忠正、平家弘、源為義ら武士を召集して、生き残りを図るために武力で天皇方を倒そうとした(保元の乱)。しかし、鳥羽法皇は生前すでに有事に備えて、有力な武士らに後白河天皇を守るよう命じており、7月11日には平清盛・源義朝・源義康らの白河殿への夜陰に乗じた奇襲攻撃により、崇徳院方は敗走した。頼長は矢傷によって六日後に死亡、忠正・家弘・為義は捕縛の後に処刑され、崇徳上皇は仁和寺に入って髪を下ろし、後白河天皇の下に出頭したものの許されず、讃岐国に流刑に処された。このため、その後の崇徳上皇は「讃岐院」と呼ばれた。



讃岐での軟禁生活の中で、仏教に深く傾倒して極楽往生を願うようになっていった。五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念して、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、治天の君となっていた後白河法皇は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、影響下にある朝廷は写本を送り返してきた。これに激しく怒った崇徳上皇は、自分の舌を噛み切って、その血でせっかくの五つの写本全てに「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と書き込んだ。爪や髪を伸ばし続け、夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になった、とすら言われた。長寛2年8月26日(1164年9月14日)に讃岐で崩御する。一説には、三木近安によって暗殺されたともされる。遺骸を火葬にした際、その煙は都の方角にたなびいたと伝えられる。



『怨霊伝説』
崇徳天皇白峰御陵哀れな死を遂げた崇徳天皇には、古くから怨霊伝説が囁かれるようになった。

崇徳天皇の死後すぐに武士である平氏が権力を振るうがその間に太郎焼亡・次郎焼亡といった大火事が起こり、末期には叛乱が相次ぎ(下記の諡号制定はこの時期であり、既に怨霊と深く認識されていた)、更には養和の飢饉が起こる。そして平家の都落ち後の木曾義仲による暴虐と、京には凶事が連続した。やがて源平争乱を経て鎌倉幕府が成立、承久の乱で後鳥羽上皇を流刑に処するに至ると、朝廷ではいよいよ崇徳の祟りが起こったと恐れたと言う(御霊信仰)。

治承元年7月29日、中宮平徳子の懐妊に伴い怨霊の鎮魂によって安産祈願すべく、「崇徳」の諡号が定められて、同日に藤原頼長に従一位太政大臣を追贈した。寿永2年には保元の乱の古戦場である春日河原に「崇徳天皇廟」(のちの粟田宮)が設置された。だが、応仁の乱後に衰微して天文年間に平野社に統合された。また、崩御の直後に地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺(現在の白峯寺)に対しても官の保護が与えられたとされている。

『保元物語』に記される崇徳院怨霊譚は、後鳥羽院怨霊をもとに創作されたと考えられる。

その一方で後世には、四国全体の守り神であるという伝説も現われるようになる。承久の乱で土佐に流された土御門上皇(後白河の曾孫)が途中で崇徳天皇の御陵の近くを通った際にその霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて上皇と都に残してきた家族の守護を約束した。その後、上皇の遺児であった後嵯峨天皇が鎌倉幕府の推挙により皇位に就いたとされている。また、室町幕府の管領であった細川頼之が四国の守護となった際に崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われている。

明治天皇は即位に際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建した。更に1964年の東京オリンピックに際しても昭和天皇が勅使を遣わし、式年祭を執り行わせている。

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コメント

クリさん、ごめん、土偶展だけどね、東京しかやってないみたいです。
てっきり、関西まで回ると思ってました。
大体、展覧会はそういうの、多いでしょう。
でも、東京だけなんだって。
受付の人に聞いたの。
でも、まだ、時間はあります。

土偶好きの方は、面白いでしょうね、あれ。
国宝3点、縄文のヴィーナス、中空土偶、祈り、の3点でてました。
クリさん大ファンの岡本氏の作品と似た土偶もあり。
さすがに、大英博物館に出した土偶とあって、よい作品ばかり展示されてました。
なんか、土偶のバックとか、ブローチみたいなのも売ってました。
でも、展示作品数や規模からいったら、たいしたことないから、交通費かけてきはる値打ちがあるかどうかは、そのお人しだいやね。

でも、よい作品は、じっとみるから、結構疲れますね。
そこそこ、人は来てました。

なんか、ほのぼのとした造詣でした。
先に見てしもて、もうしわけない。

私パスポートつうのもってて、それで見ました。
あれ、お得でっせ。

投稿: タバサ | 2010年1月 5日 (火) 17時23分

それからね、奈良は遷都1300年記念とやらで、今年、いろいろなお寺やお宮さんで、催し物しはるみたいよ。
博物館でパンフレット、無料で置いてあったの。
それに、地図やら、催し物スケジュールかいてありました。
石上神社さんも、なんか、しはるみたい。
日本で一番、古い神社さんなんだって。

むかし、新薬師寺さんで、尼さんたちがにゅう麺、作ってはったけど、いまも、やってはるんですかね。
すごく真剣な童女みたいなお顔をして、尼さんが、にゅう麺はこんできてくれはったの、おぼえてます。

なつかしいなあ。

投稿: タバサ | 2010年1月 5日 (火) 17時42分

タバサさーん、連休には
土偶に会いに行く予定でやんす~
東京も久しぶりにあちこち行きたかったし
しかし「土偶」メインで上野から歩きたいと
思ってます~!
たしか67体展示されてるとのことで、
じっくり観て回ると結構疲れそうですかね

>奈良は遷都1300年記念
おお、そうでした!
そういう記事をシンブンで見たような・・・、
石上神社へお参りするときは、何か特別なことしてないか、
チェックしてから行ってみよう(笑)
ありがとさんです♪

何かと話題がありそうですね、奈良!!

にゅう麺は、なんか食べたくなりますね~
うちの家は、よく味噌汁にちょこっと
入れたりしてましたわ。
茄子と油あげの味噌汁とか、すごいおいしい!

投稿: くりちゃん | 2010年1月 5日 (火) 19時57分

土偶展やってる部屋は、そんなに大きくないんです。
でも、平常展で出してるのより、数段すごい土偶が出てました。

本館地下で、土偶展の簡単なビデオ説明もしてます。

本館入って向かって右の部屋は、仏像展示の部屋で、岡寺の涅槃像が展示されてました。

その部屋から奥にいくと、イランの2,3世紀のすごくきれいなガラスのつぼや、アクセサリーの展示もあり。

それから、もっと奥にアイヌの民芸品がいろいろ出てて、模様がとてもユニークでしゃれてました。
頭巾などです。

2階は、寅年にちなんだ展示、陶器のトラ枕や屏風など、ほかには、浮世絵、着物、かんざし、お能の着物や、たくさん。

本館1階はいって左は、ビデオがあって、本館や表慶館などの説明も前はしてました。
天井の裏側のせつめいとか、建物の職業の人は面白いかも。

奈良の説明の便利なパンフも本館か、平成館で見つけたんですよ、わたし。

平成館の平常展で、土偶少しあり、ほか、埴輪など。
埴輪のたてを持つ人 ってのがあるんだけど、すごく優しい顔してます。

楽しめるとよいですね。

国際子供図書館の2階は、暮れは、世界のドラゴン、ドラゴンはどの国にもいるみたいな展示を本棚でしてました。

京都の国立博物館も平安神宮の前の近代博物館も、すごそうですけどね。

投稿: タバサ | 2010年1月 5日 (火) 22時21分

タバサさーん、詳細いろいろとありがとさんです!!!
今日、会社で後輩君に「土偶観に東京まで行くねん、キャキャキャ!」と言うと、
大爆笑されました
よかです、笑っちゃってくだせー。。

図書館のドラゴン、今もやってたら有難いなぁー。
私、龍好きなもんで。
京都の建仁寺の双龍図、すごい好きなんですわ。
アイヌも、こないだ京都文化博物館で、
たまたま遭遇して東京でちょっとでも観れたら、嬉しいなー!
天気も良さそうなので、ほんと楽しみです!

投稿: くりちゃん | 2010年1月 6日 (水) 20時42分

そういえば、若い女性は少なかったかな。

学者風、芸術家風おじさん、美大っぽい男子学生、
絶対中学お受験組みと見える親子、私のようなおばさん、おばさん横綱クラスみたいな人が多かった。
アベックできてるのは、女の子の方は内心「つまんねー」なんて思ってたりするかな。

でも、爆笑されるなんて、明るくていいじゃないですか。
きっと、可愛いくみえたのかも。

投稿: タバサ | 2010年1月 6日 (水) 21時20分

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